どんな出来事にもついつい意味を見出したくなる癖が私にはようで。全てに意味がある訳は無いし、無意味も充分に価値があるのも分かっているけれども、それでもついついアレやコレやと意味を探してしまいます。
その悪癖がもっとも発揮されるのは、映画や絵本等の諸作品に触れている時で、素直に見れば良いものをまず正面から見て、次は少し離れて、はたまた裏に廻ってみたりと好き勝手に解釈をしては喜んでいます。
恐らく私の周りには的から外れた解釈がゴロゴロと転がっている事でしょう。
大抵の作品は足りない頭で無理やりにでも解釈してしまうですが、中にはどうしても解釈しきれずもやもやとした気持ちになる作品があります。例えば絵本「もりのなか」とか。

 

あらすじ 紙の帽子とあたらしいラッパを持って、森へ探索に出かけた「ぼく」の前に次々と動物達が現れては自分達も連れて行ってくれと言い、お供になっていく。
そして、森の奥まで着くと「ぼく」はみんなとロンドン橋落ちたやハンカチ落しをして遊び、最後にかくれんぼをしました。すると・・・・

 

単純なストーリーのはずが、どうも理解しきれない、釈然としない部分が有って、例えばライオン→小象2頭→熊2頭→カンガルー父母子→年を取ったコウノトリ→サル2頭→ウサギの順で登場する動物達はそれぞれアイテムを持っているのだが、 動物自体の持つイメージや特性とアイテムがリンクしているケース、ライオンは王冠とクシ、熊はピーナツとジャムなんかはとても分かりやすくすぐにピンとくる。
でも、セーターだけを着た小象、靴だけを履いた小象って?子供だからちぐはぐに着る?体が大きくて大らかな印象がある象は服をちゃんと着るない?
只、意味は掴みきれないものの、おかしみは十分に伝わってくるシーンではあります。

 

もっと、意味深そうで解釈が難しいのが年老いたコウノトリ。動物達の中で何のアイテムも持たず、人語を喋らないのはコウノトリとウサギだけ。
最後に登場するウサギは他の動物達が主人公「ぼく」が生み出した空想なのに対して、「ぼく」が実際に森で出会った動物だから、喋らないのも、道具を持たない事も当然。つまり現実世界の象徴な訳で。
では、僕の空想が作り出した動物であるはずのコウノトリが何故喋らないのか?
しかも赤ちゃんを運ぶ事から「生」を連想させるコウノトリが年老いている・・・「老い」や「死」という言葉がさえ浮かんできます。

 

「わからない、わからない」と何度も読み込む内に、白と黒のコントラストのみで描かれたこの作品がいかに読者をグイグイと絵本の世界に引き込む力を持っているのに気がつかされました。地味な印象を与えかねない白と黒のコントラストにさえ作者の意図が込められたいたようです。
作中の森は光がサンサンとさしって明るいというよりか薄暗くジメッとした雰囲気。だだっ広くて視界をさえぎるものが無い平原のような場所よりも自分の行く手に何があるのか、何者が現れるのかわからない薄暗い森の方が想像力をかきたてられますよね。
私も鬱蒼とした森の中へ入ると異界に紛れこんだ気分になり、もしかしたらこのままさ迷い続けて出れなくなってしまうのでは?と一瞬恐怖に駆られた事が何度もあります。
「ぼく」が動物達を引き連れて森の奥へと進んでいく様子は「ぼく」が空想の世界の奥に進んでいく過程でもあり、それは読者自身が本の世界へ没入していく様とも重なります。読者も動物達のように「ぼく」の後をついて歩いているのです。
そう考えると「もりのなか」は絵本を読む行為自体を描いているとも取れます。高野文子の大名作「黄色い本」のように。

 

つまり下手な解釈をせずに「ボク」の後をついていくのが一番って事ですかね。靴以外はスッポンポンで。

 

4834000168 もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツ
福音館書店 1963-12-20

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