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2008.11.30
ブログペットシッターともつながるような―「わたしと あそんで」
前回に続いて今回もマリー・ホール・エッソの作品から絵本「わたしと あそんで」をとりあげます。設定の巧みさや話の深みでは前回取り上げた「もりのなか」ですが、絵の可愛らしさから言えばコチラです。 あらすじ 動物が大好きな「わたし」は動物達と遊びたくて仕方がありません。「あそびましょ」と声をかけて動物を捕まえようとしますが、みんな逃げてしまいます。 だあれも遊んでくれないと、しょげて音を立てず大人しくしている「わたし」のまわりに徐々に動物達が集まってきます。 まず、何よりチョコレートを口の周りにつけているのがよく似合うような女の子「わたし」の仕草が可愛いです。 絵本の中で色がついているのが「わたし」と動物達のみで木や家などの背景には色がついていません。 「だあれも遊んでくれない」と池の淵の石に腰掛けているページでは色は「わたし」の髪と肌と靴の色のみと地味な雰囲気ですが、そこにバッタが戻って来るとバッタの色がページに加わり、カエル、カメとドンドンと動物達が戻ってくる毎にページの色もドンドンと増えてきます。「わたし」の喜びとページのカラフルさがリンクしているのです。こういう仕掛けはさすがに見事なものです。 また、話は池の周りで展開されるのですが、水面に映る女の子や動物達の影がユラユラと儚くも美しいの一言。 私の手元にある絵本は1984年版ですが、最近のは装丁の地の色がクリームからピンクに変わっているのですね。日の光をイメージしてクリーム色だと思うのですが、ピンクに変わると作品の印象も変わってくるのでしょうか? ピンクの方が手に取って貰い易そうでは有りますね。 動物達とつき合い方、(ひいては人づき合い)をテーマとしているこの作品は、どこかペットシッターの仕事と重なる点も興味を惹かれました。確かに無理に仲良くなろうとしても駄目だし、仲良くなれると嬉しいよね。ウンウンと頷くことしきりでした。わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツ
福音館書店 1968-08-01
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2008.11.18
ブログわからないとつぶやくよりも森へいこう―「もりのなか」
どんな出来事にもついつい意味を見出したくなる癖が私にはようで。全てに意味がある訳は無いし、無意味も充分に価値があるのも分かっているけれども、それでもついついアレやコレやと意味を探してしまいます。 その悪癖がもっとも発揮されるのは、映画や絵本等の諸作品に触れている時で、素直に見れば良いものをまず正面から見て、次は少し離れて、はたまた裏に廻ってみたりと好き勝手に解釈をしては喜んでいます。 恐らく私の周りには的から外れた解釈がゴロゴロと転がっている事でしょう。 大抵の作品は足りない頭で無理やりにでも解釈してしまうですが、中にはどうしても解釈しきれずもやもやとした気持ちになる作品があります。例えば絵本「もりのなか」とか。 あらすじ 紙の帽子とあたらしいラッパを持って、森へ探索に出かけた「ぼく」の前に次々と動物達が現れては自分達も連れて行ってくれと言い、お供になっていく。 そして、森の奥まで着くと「ぼく」はみんなとロンドン橋落ちたやハンカチ落しをして遊び、最後にかくれんぼをしました。すると・・・・ 単純なストーリーのはずが、どうも理解しきれない、釈然としない部分が有って、例えばライオン→小象2頭→熊2頭→カンガルー父母子→年を取ったコウノトリ→サル2頭→ウサギの順で登場する動物達はそれぞれアイテムを持っているのだが、 動物自体の持つイメージや特性とアイテムがリンクしているケース、ライオンは王冠とクシ、熊はピーナツとジャムなんかはとても分かりやすくすぐにピンとくる。 でも、セーターだけを着た小象、靴だけを履いた小象って?子供だからちぐはぐに着る?体が大きくて大らかな印象がある象は服をちゃんと着るない? 只、意味は掴みきれないものの、おかしみは十分に伝わってくるシーンではあります。 もっと、意味深そうで解釈が難しいのが年老いたコウノトリ。動物達の中で何のアイテムも持たず、人語を喋らないのはコウノトリとウサギだけ。 最後に登場するウサギは他の動物達が主人公「ぼく」が生み出した空想なのに対して、「ぼく」が実際に森で出会った動物だから、喋らないのも、道具を持たない事も当然。つまり現実世界の象徴な訳で。 では、僕の空想が作り出した動物であるはずのコウノトリが何故喋らないのか? しかも赤ちゃんを運ぶ事から「生」を連想させるコウノトリが年老いている・・・「老い」や「死」という言葉がさえ浮かんできます。 「わからない、わからない」と何度も読み込む内に、白と黒のコントラストのみで描かれたこの作品がいかに読者をグイグイと絵本の世界に引き込む力を持っているのに気がつかされました。地味な印象を与えかねない白と黒のコントラストにさえ作者の意図が込められたいたようです。 作中の森は光がサンサンとさしって明るいというよりか薄暗くジメッとした雰囲気。だだっ広くて視界をさえぎるものが無い平原のような場所よりも自分の行く手に何があるのか、何者が現れるのかわからない薄暗い森の方が想像力をかきたてられますよね。 私も鬱蒼とした森の中へ入ると異界に紛れこんだ気分になり、もしかしたらこのままさ迷い続けて出れなくなってしまうのでは?と一瞬恐怖に駆られた事が何度もあります。 「ぼく」が動物達を引き連れて森の奥へと進んでいく様子は「ぼく」が空想の世界の奥に進んでいく過程でもあり、それは読者自身が本の世界へ没入していく様とも重なります。読者も動物達のように「ぼく」の後をついて歩いているのです。 そう考えると「もりのなか」は絵本を読む行為自体を描いているとも取れます。高野文子の大名作「黄色い本」のように。 つまり下手な解釈をせずに「ボク」の後をついていくのが一番って事ですかね。靴以外はスッポンポンで。もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツ
福音館書店 1963-12-20
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2008.11.13
ブログすがすがしいまでに無意味―「王様の背中」
内田百閒、動物と言えば名作「ノラや」ですが,あえて童話が9編納められた短編集(9編の内7編に動物が登場します。)「王様の背中」をとりあげます。 内田百閒の作品には道を歩いていたら、いきなり落とし穴に落とされたような「急さ」「意外さ」があります。今まで熱心に書いていた話を幼児が遊んでいたオモチャに突如飽きてオモチャを放り投げるように止めてしまう。 「なんでそこに落穴掘るかなぁ?」と面白くもあり、実は落とし穴は底なしじゃないのだろうかという気がして怖くもあります。本当に掴み所の無い人です。平気で矛盾するし。 本書では「桃太郎」が抜けて面白いですね。こちらに対して何のメッセージも発信してこない。本当に何にも。 ふんだんに使われた版画家谷中安規の挿絵(版画)もイイですね。もともと童話と版画はいかにも相性がよさそうですが、百閒の持つおかしみと挿絵のイメージがピッタリです。 百閒と谷中の取り合わせは非常にゴージャスな気分にさせてくれます。 ゴージャズといってもフランス料理とワインというよりは和菓子に日本茶といった具合に渋い目ですが。 でも一番面白のは本編より巻頭だったりします。こんな所も百閒らしいですね。 (前略)この本のお話には、教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さん安心して読んで下さい。 どのお話にも、ただ読んで頂いた通りに受け取ってくださればよろしいのです。 それがまた文章の正しい読み方なのです。王様の背中 (福武文庫)
内田 百けん
福武書店 1994-09
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2008.11.11
ブログ何が何だか記念日
今日(11月11日)はポッキーの日であり、チーズの日であり、下駄の日であり靴下の日であり・・・他にも沢山の記念日に制定されています。(私が敬愛してやまないカート・ヴォネガットの日でもあります。)1並びだから人気なのでしょうか? しかしポッキー食べて、チーズ食べたら味混ざっちゃうし、下駄履いたら、靴下履けないしで何が何だか忙しないですね。 12月1日は手帳の日だそうですが、みなさんは来年の手帳はもう買われましたか? 私は10月30日に買いまして、ちなみに10月30日は卵かけご飯の日・・・・ なんとも微妙な卵かけご飯の日に購入した手帳は、例年より一層ご飯が進むのでは無く、例年より一回り大きいものです。 せっかく大きくなった手帳が無駄にならないように、今後とも頑張っていく所存でございます。 -
2008.10.27
ブログパンダとオジサン
オーなんと 「パンダはイヌに近い ゲノム解読80%類似 中国で発表」 http://www.asahi.com/science/update/1011/TKY200810110148.html こりゃ大発見だぁー とまあ、白々しく驚いていますが、10月18日当日に記事は読んでいました。いつも通りニュースにすぐに記事にせずノロノロとしていた訳です。 ワンちゃんとパンダ共に人気なのはゲノムが似ているからなのかもしれませんねえ。 私はパンダの人気はオッサン臭い仕草と体型にあるのではと睨んでいます。かくいう私も夏場のオッサンのようなダラシのない姿は気に入っています。 同様の理由で人気があるのはクマ(プーさんはお腹が出ています)に同じくお腹の出ているペンギン。 メタボダ何だとネガティブに語られがちのオジサンですが、意外にみんなオジサンが好きなのではないでしょうか?