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2008.08.27
ブログマスターピース―「はらぺこあおむし」
どんなジャンルにも受け手の性別、年齢、嗜好そして時代をを超えて訴えかける作品が存在します。そんな作品をマスターピースと呼ぶなら、絵本「はらぺこあおむし」は間違いなくマスターピースでしょう。 一枚の葉っぱでも部分によって色を書き分ける色使いの多彩さ、鮮やかさ。コラージュによって生み出される立体感。おなかを壊したのあおむし情けない顔、無関心さまで感じさせる明るい太陽、やさしい白い月。単純にして飽きのこないストーリー。 「はらぺこあおむし」の魅力は沢山の人に語られてるのでわざわざ下手な文章で再度述べなくてもいいのですが(動物じゃなくて昆虫だし)7月24日付けの朝日新聞のこんな記事↓が載っていたので。以下抜粋。 何度も手術を受けた心臓病の女の子がいた。むしが次々に果物をかじって、あなをあけていく 絵本「はらぺこあおむし」をみて、その子はいった。「食べたあとが腐らないのはヘンだ」村中のもっている初版では、虫の食べてあとは色が変わっていた。米国の著者エリック・カール(79)に理由を問い合わせた。「わかりやすさを求めて改版のさい、シンプルにした」と返事があった。 日本では88年に改訂版が出ているそうで、違いが知りたくて書店で改訂版をチェックしました。 手元にある改訂前版と比べてみると蝶の目が違ったりと細かく変えているようです。 素人目にはじっくりと見ないとわからないような、変更を行うこだわりが名作を生み出すのでしょうね。はらぺこあおむし
エリック=カール もり ひさし
偕成社 1989-02
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2008.08.26
ブログ紀ノ国屋にて
先日、吉祥寺でのお世話を終えて帰宅すると途中に紀ノ国屋を発見。 紀ノ国屋吉祥寺店は大島弓子が吉祥寺に住んでいた頃に通っていたスーパーで作品にも度々登場します。 せっかくなので買い物をと入店。 「19時閉店なのか。今どき珍しい」「さてさて、何を買おう?喉渇いたし、とりあえず飲み物かな」と考えている最中にとても大切な事に気づきました。日中お金を使ってしまってもうジュースさえ買えない事実に。 仕方がないので「あ!買う物ナイや」顔でシレッとして店内を一周して出てきました。 吉祥寺はお世話でも買い物でも足を運びますが、緑豊かで飲食、洋服、レコード、古本と自転車と様々なお店があって気に入ってます。 現在は引っ越したようですが吉祥寺という町が大島作品に与えた影響は大きそうですね。 サバシリーズなんて特に。 -
2008.08.25
ブログサバフィルター ―「サバの秋の夜長」「サバの夏が来た」
以前とりあげた「グーグーだって猫である」ではグーグー達それぞれに向けられていた筆者の愛情が今回とりあげる「サバの秋の夜長」「サバの夏が来た」ではサバだけに注がれてグッと濃密になっています。愛情を向けるというよりも筆者とサバが一体化しています。 読み味も同じで色々なネコちゃんを愉快に眺めていたのならサラッとした前者、筆者の複雑な内面を垣間見たいなら後者といったところでしょうか。 筆者にとってサバは世界を見つめる為のフィルターであり感情を増幅させる装置のようです。 湾岸戦争で犠牲になる人々や動物をサバに見立てて悲しみ、サバの避妊手術が終わるのを待つ間にみた、美しい桜フブキをツミとバツの桜フブキだと落ち込みます。 サバは悲しみだけを増幅させるわけでは有りません。 サバについているノミを通してグローバルな視点に立ち(これだけだと何のことやらですが、とても楽しいエピソードです。)、ひさしぶりの雨をサバの静電気が収まると喜びます。 サバというフィルターを通して描かれる世界はどれも繊細で非常に美しい世界です。 残念なことにサバが亡くなってしまいこの世界は失われてしまいますが、それはグーグー達との出会いの始まりでもあり、物事は複雑で一見しただけでは全容はわかりませんね。サバの秋の夜長 (白泉社文庫)
大島 弓子
白泉社 2000-03
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2008.08.21
ブログ押井犬はバセットハウンド好き―「イノセンス」
少し前の話になりますが、朝の情報番組スッキリ!!にて放映されていた*「スッキリ・クロラ」に出てくる押井監督の顔を模した、ワンちゃんを押井犬と呼んで勝手に喜んでいました。かわいくないとか。本人に似ているけど髪は多いとか。悪口では有りませんよ。私は押井犬のことをとても気に入っています。 そんな訳で今まで押井作品に触れたことがなかったので、いい機会だと映画「イノセンス」を見ました。 *映画「スカイ・クロラ」の登場人物とスッキリ!!の出演者が登場する1分間のアニメーション 現在(8月21日)も第二日本テレビで閲覧可能(http://www.dai2ntv.jp/p/z/131z/) あくまで私の主観ですが、力の入った映像でしたが圧倒まではされず、脳を機械化して人々が膨大な情報を共有し、体の一部を機械化することによって自分と他人の区別がつかなくなる 「この体、この脳は誰のもの?自分と他人との違いってなに?」という問題定義は興味深いし、自分と他人との区別がつきにいく状況下において自我を保つ為にイノセンスなものを求める行為(主人公バトーにとってはバセットハウンドと手が届かない遠くにいってしまった、もしくは気づかない程近くにいる少佐)こそが自分らしさだという帰結もうなずけるのですが、どこか物語にひきつけられない。 退屈とまでは行かないにしても引き込まれない。後で見たパトレーバー2の方が物語としてのパワーを感じました。 コアなファンからすると読み込みが足りないのかもしれませんが、個人的な感想ですのご容赦を。 ハードボイルドで謎めいたセリフやアクションシーンはハリウッド映画を思わせるので、これらにオリエンタル風味を加えているのが海外受けする秘訣でしょうか。 でも素早い展開のアクションシーンや壮大な都市を描くシーンよりも私の目を引いた映像はバトーの飼うバセットハウンドの食事シーンです。 食事を与えると、早速食器に顔を突っ込むのですが長い耳まで食器の中にするとバトーが優しく耳を取り出してあげます。クールでタフなバトーが心優しい人間であることが一瞬で分かるシーンです。 一瞬にして多くの情報を伝えるのが作り手の技であり、それを見抜くのが受け手の醍醐味ではないでしょうか? このシーンには、食いつきのいいワンちゃんを飼ったことのある方ならお馴染みの勢い余って食器を押しながら食べ続けるというオマケまでついてきます。監督はバセットハウンドを飼っているそうですがバトーの優しさ共に監督のワンちゃんに対する愛情と観察の深さが分かるシーンですね。 イノセンスを見て、監督本人に興味が湧いてきたので他の作品も機会があれば見てみようかなと思っています。イノセンス スタンダード版 [DVD] ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 2004-09-15by G-Tools -
2008.08.04
ブログもう人には見えない―「グーグーだって猫である1~4」
手塚治虫文化賞(短編賞)をとり映画も公開予定の何かと話題の大島弓子著「グーグーだって猫である1~4」を周回遅れながらやっと読みました。といっても実際に買ったのは、2ヶ月位前で3、4軒書店をまわっても2巻と3巻しか置いてなくて、全巻を手に入れるのがタイヘンでタイヘンで。 売れているをわが身を持って知りしました。 私にとって 「大島弓子」「ネコちゃん」でパッと浮かぶのが「綿の国星」「サバ~」シリーズでしたので「ネコちゃんを擬人化しないのかぁ」が第一印象。読み進めていく内にそれも納得でした。 サバが著者にとって友人であり、家族であり、恋人?であり(サバは女の子なのですが男の子のように描かれている)そして著者自身を写す鏡であったのに対してグーグー達は何処までも行ってもネコちゃん。ネコちゃんとして付き合いネコちゃんとして可愛がり責任を持って飼っています。 何故、付き合い方が違うのか?反省しているからでしょう。自分の事にかまかけてサバの面倒をちゃんと見てやれなかった。あの時ああしていればサバはもっと長生きできたのでは?もっと幸せにしてあげられたのでは?と。 だからグーグー達にはしっかりと飼おうと全力を注いでいます。自身の内面を安易に投影せず一匹の「ネコちゃん」としてネコちゃん自身の気持ちと向き合い続けた結果が擬人化無しの表現に行き着いたのでしょう。 著者が必死になってグーグー達と向き合っている姿はサバに対する贖罪のようで切なくなってきます。もちろん贖罪だけではそれぞれのネコちゃん達をあれだけカワイく特徴豊かに書き分けることは出来ないでしょうし、マンガ全体から感じられるネコちゃん達への眼差しはとても愛情に満ちています。 それでも過度に繊細な著者(反面とても頑固でもありますね)のサバに対する深い深い後悔と反省を思うと胸が痛みます。 私はペットシッターとして様々なお宅にお伺いしますが、飼い主さんとペットの絆は一様にみんな固いものです。 私にもなついてくれますが、やはり飼い主さんとは特別だなと感じます。 著者には肩の力を抜いて自分を赦してやって欲しいです。サバは著者と暮らせて間違いなく幸せだったのだから。 追記 タイトルは「我輩は猫である」からきているのでしょうか?勝手にサバは大切なネコだったけどグーグーだって大切なネコであると想像しているのですが・・・考え過ぎでしょうか?グーグーだって猫である
大島 弓子
角川書店 2000-07
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