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2009.01.27
ブログ白と黒のアイツ―「365まいにちペンギン」
以前とパンダやペンギンの人気の秘密を考察しましたが、(考察というかたわ言なのですが)ペンギンの人気の理由を改めて探ると、丸い曲線と白と黒のコントラストの魅力に行き着きます。 今回取り上げるのは、そのペンギンの魅力を上手くデザイン化した絵本「365まいにちペンギン」です。 あらすじ ぼくら家族の家にペ1羽のぺンギンが宅配便で送られてきた。「ぼくはペンギン1ごう。おなかがすいたら なにかたべさせてね」と書かれたカード共に。次の日にはもう1羽。また、次の日にはもう一羽と毎日ペンギンが増え続けて、もう大変。 絵、ジョエル・ジュリヴェ、文、ジャン=リュック・フロンマタル共にCM製作に携わっているので、テンポよく、オシャレに飽きさせず話は進んでいきます。所々で算数の問題が出てくるのですが、話が進む毎に問題が難しくなっていくので、段々と考える時間が長くなっていく自分が何とも情けない。 とにかく楽しくスラスラと読めてしまう作品です。オチが教条臭いきらいがありますが、サラリと社会問題を入れるのもCMっぽい。(おじいちゃんのモデルは北極探検家?) ところで、ペンギンの半数以上は南極に住んでいないって知ってました?暑い地域にも住んでいるらしいですよ。365まいにちペンギン ジャン=リュック フロマンタル ジョエル ジョリヴェ ブロンズ新社 2006-12 by G-Tools -
2009.01.19
ブログ初夢ネタを書くには遅すぎた―「ちいさい ちいさい ぞうのゆめ・・・です」
初夢とは12月31日~1月1日の夜を指すのでしょうか?それとも1日~2日の夜を指すのでしょうか? いずれにせよ私は気絶をするように寝ていました。(1月も下旬に入ろうかというのに何故初夢ネタ?それは書き始めたのが6日だからです・・・) 今回取り上げるのはちいさいなわかくさいろのぞうの夢を描く絵本「ちいさい ちいさい ぞうのゆめ・・・です」。 あらすじ ある所におおきいぞう達とちいさいちいさいぞうが住んでいました。おおきいぞう達とは馴染めないちいさいぞうは夢でみた自分の本当の居場所を求めて旅に出ます。 さて彼の行き着く先は・・・ 絵柄は、非常に儚げな雰囲気をかもし出しています。儚げ過ぎてハッピーエンドで終わっても夢オチかと疑ってしまう程ですが、それではぞう君が余りに哀れなので夢オチでは無いでしょう。 絵柄の儚さはつらいつらい旅の途中のぞうくんの心もとなさ、不安を表し、やっと見つけたユートピアでは不安な儚さはいつしかやすらぎ溢れる安心感へと変わっています。まるで暗い悪夢から覚め希望の夜明けを迎えるように。 弱者がユートピアを求めて旅立つという典型的なストーリーです。おおきいぞうたちは「はいいろで はなを まきあげては さけびごえを あげていました」、一方ちいさいぞうは「わかくさいろで やさしい こえでうたうことが だいすき。からだは ねずみくらい」 せっかくやさしいこえで歌っているのに、横ではなをまきあげながら叫ばれたら、出て行きたくもなるでしょう。 体のサイズもねずみ位で、ぜんぜん違うし。些細なようですが体のサイズが違うと一緒に生活するのは困難でしょうね。私も力士との同棲を想像するとゲンナリします。 まあ、この場合サイズ以外にも乗り越えなければいけない壁が沢山ありますが。 奈良美智が描くワンちゃん似のかよわいぞう君にとって、旅はとても困難だったことでしょう。でも考えてみれば強者はいま居る場所で充分になのだから、弱者にこそ、ここでは無いいまだ見ぬユートピアが必要な訳で。だから旅立たなければならないのです。そう世界はいつだって弱者につらい決断を迫るのです。 私の会社も大体ハツカネズミ位のサイズですので、ちいさいぞう君を見習ってユートピアに向けて万進しなれけばと、この絵本を読みながら思った次第であります。 と、なんとか新年の誓いぽくまとめたつもりになった所で締めたいと思います。ちいさいちいさいぞうのゆめ…です
ルース・ボーンスタイン おくだ つぐお
ほるぷ出版 1979-08
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2008.11.30
ブログペットシッターともつながるような―「わたしと あそんで」
前回に続いて今回もマリー・ホール・エッソの作品から絵本「わたしと あそんで」をとりあげます。設定の巧みさや話の深みでは前回取り上げた「もりのなか」ですが、絵の可愛らしさから言えばコチラです。 あらすじ 動物が大好きな「わたし」は動物達と遊びたくて仕方がありません。「あそびましょ」と声をかけて動物を捕まえようとしますが、みんな逃げてしまいます。 だあれも遊んでくれないと、しょげて音を立てず大人しくしている「わたし」のまわりに徐々に動物達が集まってきます。 まず、何よりチョコレートを口の周りにつけているのがよく似合うような女の子「わたし」の仕草が可愛いです。 絵本の中で色がついているのが「わたし」と動物達のみで木や家などの背景には色がついていません。 「だあれも遊んでくれない」と池の淵の石に腰掛けているページでは色は「わたし」の髪と肌と靴の色のみと地味な雰囲気ですが、そこにバッタが戻って来るとバッタの色がページに加わり、カエル、カメとドンドンと動物達が戻ってくる毎にページの色もドンドンと増えてきます。「わたし」の喜びとページのカラフルさがリンクしているのです。こういう仕掛けはさすがに見事なものです。 また、話は池の周りで展開されるのですが、水面に映る女の子や動物達の影がユラユラと儚くも美しいの一言。 私の手元にある絵本は1984年版ですが、最近のは装丁の地の色がクリームからピンクに変わっているのですね。日の光をイメージしてクリーム色だと思うのですが、ピンクに変わると作品の印象も変わってくるのでしょうか? ピンクの方が手に取って貰い易そうでは有りますね。 動物達とつき合い方、(ひいては人づき合い)をテーマとしているこの作品は、どこかペットシッターの仕事と重なる点も興味を惹かれました。確かに無理に仲良くなろうとしても駄目だし、仲良くなれると嬉しいよね。ウンウンと頷くことしきりでした。わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツ
福音館書店 1968-08-01
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2008.11.18
ブログわからないとつぶやくよりも森へいこう―「もりのなか」
どんな出来事にもついつい意味を見出したくなる癖が私にはようで。全てに意味がある訳は無いし、無意味も充分に価値があるのも分かっているけれども、それでもついついアレやコレやと意味を探してしまいます。 その悪癖がもっとも発揮されるのは、映画や絵本等の諸作品に触れている時で、素直に見れば良いものをまず正面から見て、次は少し離れて、はたまた裏に廻ってみたりと好き勝手に解釈をしては喜んでいます。 恐らく私の周りには的から外れた解釈がゴロゴロと転がっている事でしょう。 大抵の作品は足りない頭で無理やりにでも解釈してしまうですが、中にはどうしても解釈しきれずもやもやとした気持ちになる作品があります。例えば絵本「もりのなか」とか。 あらすじ 紙の帽子とあたらしいラッパを持って、森へ探索に出かけた「ぼく」の前に次々と動物達が現れては自分達も連れて行ってくれと言い、お供になっていく。 そして、森の奥まで着くと「ぼく」はみんなとロンドン橋落ちたやハンカチ落しをして遊び、最後にかくれんぼをしました。すると・・・・ 単純なストーリーのはずが、どうも理解しきれない、釈然としない部分が有って、例えばライオン→小象2頭→熊2頭→カンガルー父母子→年を取ったコウノトリ→サル2頭→ウサギの順で登場する動物達はそれぞれアイテムを持っているのだが、 動物自体の持つイメージや特性とアイテムがリンクしているケース、ライオンは王冠とクシ、熊はピーナツとジャムなんかはとても分かりやすくすぐにピンとくる。 でも、セーターだけを着た小象、靴だけを履いた小象って?子供だからちぐはぐに着る?体が大きくて大らかな印象がある象は服をちゃんと着るない? 只、意味は掴みきれないものの、おかしみは十分に伝わってくるシーンではあります。 もっと、意味深そうで解釈が難しいのが年老いたコウノトリ。動物達の中で何のアイテムも持たず、人語を喋らないのはコウノトリとウサギだけ。 最後に登場するウサギは他の動物達が主人公「ぼく」が生み出した空想なのに対して、「ぼく」が実際に森で出会った動物だから、喋らないのも、道具を持たない事も当然。つまり現実世界の象徴な訳で。 では、僕の空想が作り出した動物であるはずのコウノトリが何故喋らないのか? しかも赤ちゃんを運ぶ事から「生」を連想させるコウノトリが年老いている・・・「老い」や「死」という言葉がさえ浮かんできます。 「わからない、わからない」と何度も読み込む内に、白と黒のコントラストのみで描かれたこの作品がいかに読者をグイグイと絵本の世界に引き込む力を持っているのに気がつかされました。地味な印象を与えかねない白と黒のコントラストにさえ作者の意図が込められたいたようです。 作中の森は光がサンサンとさしって明るいというよりか薄暗くジメッとした雰囲気。だだっ広くて視界をさえぎるものが無い平原のような場所よりも自分の行く手に何があるのか、何者が現れるのかわからない薄暗い森の方が想像力をかきたてられますよね。 私も鬱蒼とした森の中へ入ると異界に紛れこんだ気分になり、もしかしたらこのままさ迷い続けて出れなくなってしまうのでは?と一瞬恐怖に駆られた事が何度もあります。 「ぼく」が動物達を引き連れて森の奥へと進んでいく様子は「ぼく」が空想の世界の奥に進んでいく過程でもあり、それは読者自身が本の世界へ没入していく様とも重なります。読者も動物達のように「ぼく」の後をついて歩いているのです。 そう考えると「もりのなか」は絵本を読む行為自体を描いているとも取れます。高野文子の大名作「黄色い本」のように。 つまり下手な解釈をせずに「ボク」の後をついていくのが一番って事ですかね。靴以外はスッポンポンで。もりのなか (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)
マリー・ホール・エッツ
福音館書店 1963-12-20
by G-Tools -
2008.10.22
ブログA少年を元気づけてみよう―「カングル・ワングルのぼうし」
内気で友達が出来なくて寂しがっている小学生のA少年がいるとしましょう。さてA君を元気づけるにはどうしたものだろうか?友達になってあげるのが一番かもしれませんが、やっぱり同世代の友達と一緒に居るのが一番楽しいでしょう。 では絵本「カングル・ワングルのぼうし」をプレゼントするというのはどうでしょうか?絵本に限らず映画、本、音楽は困難な状況や障害をダイレクトに解決はしてくれませんが、乗り越えるに手助けをソッとしてくれます。 あらすじ クランペティの木の上に座って、顔が隠れる程大きな帽子をかぶっているカングル・ワングルは誰も遊びにきてくれないのでとても寂しい気分でした。しかしカングル・ワングルの帽子を見たカナリヤが「その素敵な帽子に巣を作れらせてください」と訊ねて来ました。それからはドンドンと動物達が訊ねてきます。 顔が隠れる程リボンやレースにすずがついている大きな帽子とはカングル・ワングルの頭脳をさし、頭脳から生み出される想像力が豊かで美しい事を表しています。その帽子に実在しない動物達(はったりネズミ、びっくりこうもり等)が住まわせてと訊ねてくる。 つまりこの動物達は空想の産物。また、地上とは隔絶した木の上に住んでいるカングル・ワングルは社会生活が苦手な内向的な性格であるようです。 この絵本の詩(文章)を書いたのはエドワード・リア。筆者略歴を見ると「幼い時から病弱で7歳ごろからテンカンの持病に悩まされ作詩や絵画に熱中するする内向的な人となりました」とあります。 カングル・ワングルとは、エドワード・リア本人だったのです。動物達がすべて空想とするなら、カングル・ワングルもしくはリアは空想で孤独を紛らわす寂しい男の子なのでしょうか? そうでは有りません。リアはその想像力と画才を武器としてヴィクトリア女王に絵の手ほどきをするまでの人物となりました。また貧しい人に心を寄せを収入の大部分を分け与えたそうです。 つまり社会的に成功したひとかどの人物となったのです。 一方、絵をつけたのはヘレン・オクセンバリー。巻頭にてこの絵本をジョンに捧げています。 ジョンとは、「おじいちゃん」等の作品で有名な絵本作家のジョン・バーニンガム。捧げられたバーニンガムが内向的な少年だったかまでは分かりませんが、(以前、当ブログで取り上げた「アルド・わたしだけのひみつのともだち」は孤独で想像力が豊かな少女が主人公でした) リアの詩にシンパシーを感じて取り上げたのは間違いないでしょう。 内向的である事も孤独であることも、そんなに悪くはないのです。大切なのは、その状況をどう生かすかです。 と少年Aに語りかけても「絵本なんてイラナイ。みんなが持っているから、友達を作るためにwiiがPSPを買ってよ」と言われると、返す言葉もないですが。カングル・ワングルのぼうし
エドワード・リア ヘレン・オクセンバリー
ほるぷ出版 1975-10
by G-Tools